衝突回路

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本日もゲー音にて。 第三話

『本日もゲー音にて。』の第三話が出来ました。
今回ちょっと難産でした。楽しんでもらえれば何よりです。

→第二話はこちら

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 開けっ放しにされた部室棟の入り口をくぐり、2階へとつながる階段を真衣が一段ずつ上っていく。
 踊り場の窓から差し込む日差しが真新しい壁や金属の手すりに反射し、やや薄暗い室内に明暗のコントラストを作り出していた。きれいに磨かれた床の光沢がわずかながら高級感を足し合わせている。比較的最近作られたこの建物は、昔からある校舎や体育館とはだいぶ雰囲気が異なっていた。
 最初はこの見慣れない雰囲気が、新しい学校生活の始まりを真衣に予感させてくれた。しかしそれも束の間、入学から一ヶ月ほど経った今では新鮮味もすっかり消え去っている。あの時の高揚感が思い出せないのをちょっと残念に思いつつ、足早に廊下を進む。
 部室のドアに貼り付けられた極太の「ゲー音」の文字にもすっかり目が慣れた。いつものようにノブに手をかけ、扉を開く。
「こんちわー……っ!?」
 部室に入ってまず視界に飛び込んできたのは部員でも窓でもテーブルでもなく、白い球だった。激しく回転のかかったそれは空気を切り裂きながら、真正面から真衣の額に激突した。目をつぶって勢い良くのけ反る。
 想像していたよりも軽かったその衝撃から、ぶつかった物がピンポン球だと気づいた。テーブル代わりの卓球台が部屋の中に置かれていたことを真衣は思い出す。野球のボールみたいな硬いものじゃなくて良かったと思っていたら、時間差でじわじわと痛みが滲み出し思わず顔をしかめた。
「ごめん真衣ちゃん! 大丈夫?」
 ラケットを握ったまま実(みのり)が心配そうな顔で駆け寄ってきた。その向こう、卓球台の奥では千鳥がガッツポーズを決めている。
「っしゃスマッシュ決まったぁ! おっと、真衣太郎ちーっす」
「そのあだ名は絶対イヤです……っていうか何してんですか、ふたりとも」
 痛みの抜け切らないおでこをさすりつつ、不満げな目つきで真衣が尋ねる。実が両手を合わせて申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「せっかく卓球台置いてあるもんだから、久々にやりたくなっちゃってね」
「つーわけで実、あと3点でアタシの勝ちだから早く台に付きな!」
 ラケットを持った手をぶんぶん振りながら千鳥が催促する。呆れ顔で実がため息を吐いた。
「あのね、あんたが打った球が真衣ちゃんにぶつかったのよ? ちょっとは反省の色を見せなさいよ」
「ほー? 実のラケットがボールにちょっとでもかすってりゃ、ぶつからずに済んだのにねぇ」
 実のこめかみのあたりから「ビキッ」という強烈な音が鳴った。目と口の端を釣り上げて、殺気のこもった笑顔で千鳥をにらみ付ける。
「上ッ等じゃないの……今度はあんたの鼻っ面スマッシュでぶち抜いてあげるわ」
「おーおー望むところじゃ、ほれほれほれ」
 千鳥が両手をひらひらと振って実を挑発する。鬼気迫る顔つきの実からサーブが放たれ、呆然と立ち尽くす真衣そっちのけで激しい攻防が再開した。
 何でこの二人はいつも喧嘩しているのだろうかと疑問に思いつつ、真衣はバッグを壁際に置いてパイプ椅子に腰を下ろした。卓球台から少し離れた位置、実と千鳥の試合を横から眺められる位置に陣取る。
 数度の打ち合いの後、実の打ち返した球が勢い余って台の外へと飛び出した。千鳥が両手を掲げて雄たけびを上げる。
「おっしゃ、アタシの勝ちじゃオラァ!」
「んーっ!」
 頭を抱えて台にうずくまるようにして実が悔しがる。しかしすぐに起き上がって身を乗り出し、千鳥に向けて右手の人差し指をぴんと立てた。
「ね、もう一回! もう一回やりましょ」
「お? いーよいーよぉ、もっかい叩き潰しちゃるわい!」
 まるで示し合わせたかのように、実と千鳥がほぼ同時に「にっ」と白い歯を見せた。つい先ほどの一触即発の空気はどこへ行ったのか、思いのほか二人とも楽しそうだなと真衣は首をかしげる。
 ほとんど休憩も挟まないまますぐ次の戦いが始まった。良く見るとどちらも結構な量の汗をかいている。実が1点先制したところで二人とも上着を脱ぎ、近くにあったパイプ椅子の上に放り投げた。ワイシャツの袖で首の汗を拭ってから、千鳥が無駄のない動きでサーブを繰り出す。
 真衣はふと、実と千鳥の表情がいつもと違うことに気づいた。相変わらず千鳥は口元だけはニコニコしているのだが、実を見る目つきに普段は見せない鋭さが混じっている。腰を低く下げて構えている実の真剣な横顔にも、攻撃的な印象を与える笑みがうっすらと浮かんでいる。単に喧嘩の延長でぶつかり合っているものと思っていた真衣は、二人の間に流れる空気にかすかな違和感を覚えた。
 不意に部室のドアがちょっとだけ開き、隙間から可愛らしい笑顔がひょっこりと現れた。
「ただいまー!」
 千鳥の弟、相沢夕兎だった。いつものように女子の制服を身にまとっている。夕兎の女装にすっかり疑問を感じなくなった自分の神経にうっすらと寒気を感じつつ、おかえり、と真衣は挨拶を返した。
「あ、姉ちゃんたち卓球やってるんだ。後で僕たちもやろーよ」
「いいけど……先輩たちの勝負がずっと終わらなさそうな」
 真衣が卓球台の方に目をやる。先ほどより球威の増した千鳥のスマッシュをギリギリのところで実が拾う。必死に喰らいつき続ける実の気迫と、それを全力で叩き潰しに行く千鳥の気勢が、台上で目に見えない火花を散らしてぶつかり合っていた。
 隣に座った夕兎の姿を横目に見ながら、真衣が小さな声で話しかける。
「なんか、いつの間にか物凄い争いになってる気がするんだけど」
「姉ちゃんたちが競争するときはいつもそうだよ。絶対に手は抜かないからね、どっちも」
 全体的に千鳥の動作の方がキレがあり、実が追い詰められていく試合展開が多いのだが、それでも粘りに粘って押し返していく実の泥臭さが真衣の目に焼きついていた。引きつった呼吸音と噴き出した汗が実の必死さをさらに強調している。いつの間にそこまでスイッチが入ったのか、すぐ横で見ていた真衣にはどうにも不可解に感じられた。
 疑問に対する答えを求めるように、真衣の視線が無意識に夕兎の横顔へと向かう。
「ねえ知ってる? 姉ちゃんと実先輩は二人とも成績すごくいいんだよ。期末テストの点数も、学年1位と2位は毎回姉ちゃんたちが取ってるんだ」
「え!?」
 思わず真衣は腰を浮かせた。実は真面目そうだという気がしていたが、千鳥も成績優秀という事実が意外すぎてすんなり頭に入ってこない。
 目を丸くしている真衣の心中を察して夕兎がくすっと笑う。
「姉ちゃんはねー、実先輩に負けたくないから、って結構真面目に勉強してるんだよ。努力してるとこあんまり人に見せたがらないけど」
 足をぱたぱたさせながら、夕兎がさらに加速していく白球の動きを楽しげに目で追っている。夕兎にとっては、今の二人の様子も見慣れた光景に過ぎないのだと真衣は気づいた。
「何かあるたび二人で競争してるんだよ。勉強でもスポーツでも何でもそう。ほとんど喧嘩みたいになってるときもあるけどね」
「……そうなんだ」
 千鳥がセンスで圧倒すれば、実が粘りで押し返す。それを見た千鳥がさらに鋭く攻め込み、それでも怯まない実が限界まで喰らいつく。千鳥の顔つきは、どこまでも諦めない実の攻勢を喜んで受け入れているようにも見えた。
「楽しそうでしょ、二人とも」
 夕兎が千鳥と実を順番に指差しながら、嬉しそうに笑みを浮かべる。その表情が二人に対する尊敬の表れだと理解するのに時間はかからなかった。
 窓ガラスを揺らすような大声が部室に響いた。
「っしゃあ!」
 汗だくの実が体をくの字に曲げ、両手に握り拳を作る。おそろしく力の入ったガッツポーズだった。その正面で千鳥が腰に手をあて、首を晒して天井を仰いでいる。
 実の勝ちだった。点数を数えていなかったので真衣には点差はわからなかったが、かなりの接戦だったことは容易に想像がつく。
 千鳥の口元がわずかに動いた。いつものニヤけた顔のままではあったが、歯を強く噛み締めているのがその動作から読み取れる。額の汗を袖でふき取り、ゆっくりと顔を前に向けると、先ほどの実と同じように人差し指を立てた。
「……もっかい」
「お」
 実の口元が歪む。好戦的な、仇敵を見つけて興奮しているかのような笑顔だった。呼吸も落ち着かないほど疲弊しているというのに、どこからそんな戦意がわくのか真衣にはさっぱり想像がつかない。
 しかしそんな空気を知ってか知らずか、夕兎がいつものマイペースな調子で手を上げた。
「あ、そろそろ僕たちにも卓球台使わせてくださーい」
「あぇ!? いや、まだちょっと」
 千鳥が妙に甲高い声を上げて驚く。しかし千鳥の抗議をけん制するように、素早く実が会話に割り込んだ。
「まあ、いいんじゃないの。ちょうど1勝1敗で引き分け、タイミングいいでしょ」
「ほほぉー、勝った直後だからって余裕かましてんな。コノヤローめ」
「っていうか疲れたからちょっと休みましょ。あーすんごい汗だわ」
 ラケットをうちわにして顔を冷やしながら、実が襟元をくいくいと引っ張って服の中に風を通している。まだ納得していないらしい千鳥を説得しに夕兎が近くへと歩み寄った。
「姉ちゃんも一回休憩しておいでよ。僕と真衣は軽くやるだけだから、すぐ終わるって」
「むぅ。まいいや、かわいい弟のためということで」
 飲み物を買いに実と千鳥が部室を出て行く。夕兎はラケットを握ると、卓球台の片側についてぶんぶんと手を振った。
「真衣、早くやろうよー」
「その前にちょっといい? さっきから気になってたんだけど、その荷物なに?」
 夕兎がバッグと一緒に持ってきた手提げ袋を真衣が指差す。夕兎が急にラケットを置き、荷物の方へと駆け寄ってきた。
「そーだった、忘れてたよ! 今日はヴィー持ってきたんだった。64のスマブロ入ってるから一緒にやろうよ!」
「あ、今日持ってきたんだ」
「うん! コントローラも二人分持ってきたよー」
 卓球をやるという話はいったいどこにすっ飛んでいったのか、意気揚々と夕兎がゲーム機のセッティングを始めた。スチール棚に置かれたブラウン管テレビにコードをつなぐ。
 買ったばかりのゲームソフトをセットしていざ遊ぼうとしている子供のような、落ち着きのない興奮が夕兎から伝わってきた。その気持ちは真衣にもわからないでもない。
 やっぱりゲームはみんなで集まって遊ぶのが一番楽しいのだ。部室にゲーム機なんてあろうものなら、毎日放課後に入り浸って何時間でも潰せる自信がある。
 その高揚感を、ドアの開く音が一蹴した。
「あつー……あら、二人とも卓球やってないの? ん?」
 缶ジュースを飲みながら部室に入ってきた実の顔に怪訝な色が浮かぶ。目ざとく夕兎の手元にあるものを見つけ、険しい表情で口の中の飲料をごくりと飲み下した。
「それってひょっとして、ファムコン?」
「お前は一昔前のカーチャンかっつの。ゲーム機は全部ファムコンとか言い出す気だろ」
 後に続いてやってきた千鳥が実の頭にチョップを入れる。その手を払い、「わかれば何でもいいでしょ!」と実が苦し紛れの反論を返した。
 缶を台の上に置くと、両手を腰に当て、威圧するように胸を張って実が真衣と夕兎の方へと目を向けた。
「ちょーっと待ちなさい。ゲームやる前にやらなきゃいけないこと、いっぱいあるでしょう。二人とも楽器の練習はちゃんとしてるのかしら?」
 教師に叱られている子供のような、ばつの悪い様子で夕兎と真衣が目を合わせる。
 振り返って考えてみると、確かにここのところあまり部室で楽器に触れていない。夕兎と雑談したり、携帯ゲーム機を持ち寄って遊んだり、信一が持ってきたノートパソコンでゲームをしたり。ギターを持ってきたのに、夕兎と遊んでいたらいつの間にか夕方になっていて、使わずにそのまま持ち帰ったことも何度かあった。
 追い詰めるように、実が厳しい目つきでにらむ。
「部室で二人が練習してるとこを最近見ないんだけどね。自宅では練習してるの?」
「家では……えーと、一応やってます」
 真衣の曖昧な言い回しを追及するように、強い口調で実が「一応ですって?」と聞き返した。肩をびくっとすくませて真衣と夕兎が半歩後ろに下がると、それに合わせて実がじりじりと距離を詰めてくる。
 切羽詰った真衣の口から言い訳が滑り出した。
「あのですね、毎日ゲームを必ず1時間以上やらなきゃいけないってルールがうちにあって」
「……は?」
 実が立ち止まって不思議そうに首をかしげた。実の進軍が止まったのを見て、ここぞとばかりに真衣が早口に話を進める。
「えっと、アニキの指示でそういうことになってるんです。だからあの、ちょっと練習時間が取りにくくて」
「あのね、そんな嘘通用するとでも思ってるの?」
 実の視線がさらに鋭く二人に突き刺さり、今度は夕兎が慌ててフォローに入った。
「いや、ほんとですよ実先輩。真衣のお兄さんもゲーム大好きなんです。よく真衣から話に聞くんですよ。ねっ、真衣」
「そ、そうそう。そうなんです」
 夕兎の目配せを受けて真衣が小刻みに首を縦に振った。実が目だけ動かして真衣と夕兎を交互に見つめる。
「本当に? 本当に毎日ゲームしなきゃいけないわけ?」
「はいっ」
 真衣と夕兎の返事がぴたりと重なり、実が黙り込む。急に静かになった部屋の中、様子をうかがうように真衣たちが実の顔を覗き込んだ。
 もしかしたら怒りが収まったのかもしれない。そんな淡い期待を抱いた二人をぶちのめすように、実が窓をぶち破る怒声を上げた。
「なんッじゃそりゃあ!!」
 瓦でも割りそうなパワーを込めて実がバコンと卓球台を叩く。真衣と夕兎が両手を合わせて震え上がった。実の後ろでは千鳥が知らん顔でジュースを飲み干しにかかっている。
「ゲームが義務ってどういうことよ! 一体何考えてんのその人!?」
 激昂して真っ赤になった顔を近づけられ、思わず真衣はのけ反って距離を取った。
 実が一度キレてしまうとしばらく手が付けられない。そのことを知っていた真衣の頭の中ではとにかくここを離れようという思考がぐるぐる回っていたが、いつの間にか部室の角に追い込まれて逃げ場がなくなっていた。
 実の人差し指がずしっと真衣の額に突き刺さる。
「そんなふざけたルールわたしが撤回させてやるわ! 真衣ちゃん今すぐ家まで連れてってちょうだい!」
「うぇっ!? きょ、今日来るんですか? うちに!?」
「そうよ!」
 実の指がぐいぐいと真衣のおでこに押し付けられる。先ほどから事態を傍観していた千鳥が急に言葉を挟んだ。
「お前そんな汗だくのカッコで人んち行く気か?」
「あっ……」
 実が一歩引き、自分のシャツをつまんでニオイをかぐ。顔をしかめ、横を向いて数秒考え込んだ後、改めて真衣の顔を凝視した。
「明日! 明日の放課後に必ず行くからね! お兄さんはうちにいるでしょうねっ!?」
「あ、明日ならいると思います……ハイ」
 ふんっ、と鼻を鳴らして実が立ち去っていく。心配そうに夕兎がこちらを見つめていた。
 これは結構厄介なことになった気がする。冷や汗を垂らしながら、真衣は事の原因になったヴィーを呆然と眺めていた。

 コンクリートの歩道をのしのしと踏みつけて歩く実の頭の中は、真衣の兄をどう論破するかという計画とそのシミュレーションでいっぱいになっていた。
 ゲームを強制するなどというふざけた考えの持ち主だ。自分たちよりだいぶ年上の大学生らしいが、どうせ真っ当な議論は通じまい。必要なら実力行使もいとわない、そんなアグレッシブすぎる計画書が脳内で清書されつつあった。
 実の前を、時折ため息をつきながら真衣が歩いている。まさか直接自宅に先輩がやってくるとは思っていなかったのだろう、明らかに乗り気ではないのが見て取れる。真衣には悪いが、多少揉めてでもこれは解決しておかなければならない問題なのだ。
 そしてそんな二人の葛藤などどこ吹く風とでも言わんばかりに、いつも通りの悩みの無さそうな顔で千鳥と夕兎が後ろからくっついてきていた。
 実が振り返り、千鳥のニヤけた口元をにらみつける。
「なんであんたたちまでついて来るんだか」
「いいじゃんヒマなんだしー」
 千鳥が腕を組んでケタケタ笑っている。その横で、夕兎が心底嬉しそうな面持ちで両手の指を絡めた。
「真衣のお兄さんに一度会ってみたかったんですよ! すっごく面白そうな人なんですもん」
「面白そう、ねえ」
 今度は実がため息をつく。こちらはこれから戦場に赴くような心持で一歩進むごとに覚悟を固めているというのに、どうにも夕兎の顔を見ていると感覚が狂うから困る。
「ここです……はぁ」
 生気の抜け落ちた顔で真衣がドアを指差す。二階建ての住居の入り口には、真衣の苗字である「一瀬(かずせ)」の名札が据え付けられていた。
 果たしてどんなモンスターペアレント、ではなくモンスターブラザーが出てくるのか。臨戦態勢に入った実が腰に両手を当て、ふんっと鼻から息を吐いて気合を入れた。
「ただいまー……先輩たち来たよ」
 猫背のまま真衣が靴を脱ぎ、家の中へと一歩足を踏み入れる。ドアの開く音に気づいたのか、フローリングの廊下の奥から中肉中背の若い男が姿を現した。年齢からして真衣の兄に間違いないだろう。
「おかえり真衣。そちらが部の先輩たちかな?」
 細いフレームのすっきりしたデザインの眼鏡をかけ、清潔な白いポロシャツを身にまとったその男は、実が想像していた「危険人物」の印象とはずいぶんかけ離れていた。切り揃えられた黒い短髪がいかにも真面目そうな青年という雰囲気を放っている。
「初めまして、真衣の兄の宏平っていいます。妹がいつもお世話になってます!」
「あ、あーはい、どうも。小戸野(おどの)実と申します」
 丁寧に頭を下げられて、思わず実も頭を下げ返す。攻撃のタイミングを見失い立ちすくんでいる実をよそに、憧れの有名人に出会ったかのような勢いで夕兎が身を乗り出した。
「初めましてですっ。僕は相沢夕兎っていいます!」
「あ、やっぱり君が夕兎くんか。真衣の話にしょっちゅう出てくるから一度会ってみたかったんだ、こんにちは」
 朗らかな笑みを浮かべて宏平が夕兎を歓迎する。夕兎の服装を見ても特に驚かないのは、事前に真衣から話を聞いているからだろうか。宏平の柔和で礼儀正しい話しぶりを前に、ますます実は本題を切り出すきっかけを失いつつあった。
 宏平が2階へと続く階段を指差す。
「真衣、俺の部屋に案内してあげてくれる? 準備しといたから」
「準備? っていうか、アニキの部屋使うの?」
「おう。俺は飲み物持ってくから先行ってて」
 廊下の奥へと消えていく宏平を怪訝な顔で横目に見つつ、真衣が実たちに声をかけた。
「2階にアニキの部屋と私の部屋があるんです。とりあえずアニキの部屋使っていいらしいので、どうぞ」
 真衣に先導され部員たちが階段を上っていく。窓から淡い日光が差し込む2階の廊下の一番奥、宏平の部屋の扉を真衣が開いた。その後ろに続いて部屋へと足を踏み入れた実が思わず絶句する。
 部屋中ゲームだらけだった。
 壁際に設置された背の高い棚には所狭しと携帯ゲーム機やそのソフトが陳列してある。最新のものからレトロな感じのものまでハードだけでも10種類以上、さらにざっと見ただけでも、ソフトの数が3桁に及ぶことは想像に難くない。
 何故かテレビが2台置いてあり、それぞれの傍にはキャスター付きのプラスチック製ラックが全部で4台。どのラックもそれほど大きくはないが、それぞれが3,4段の収納スペースを内包し、その中に新旧入り混じった据置ゲーム機と人数分のコントローラ、そしておびただしい量のソフトがぎっちり詰め込まれている。
 天井近くの壁に打ち付けられた木製の棚の上には、同じ種類のハードやコントローラの色違いが数種類ずつ小綺麗に並べられ、装飾品のごとく鮮やかな七色の彩りを見せている。そして戸が開け放たれた押入れの中には、他のスペースに入りきらなかった膨大な数のソフトや様々なゲーム関連商品のパッケージが、隙間なく積み上げられた透明ケースの中を容赦なく埋め尽くしていた。
 夕兎が黄色い悲鳴を上げる。
「何これ!? すごいっ! ゲームがいっぱい!!」
 今にもヨダレを垂らしそうな顔で夕兎がゲーム機に飛びつく。懐かしのレトロゲーから見たこともない珍品まで、老舗の中古ゲーム屋にも負けない品揃えの数々が夕兎を誘惑している。
 首を45度傾けた実の口から、死体がつぶやいたかのような低い声が漏れ出た。
「なに、これ……どうやったらこんなゲームだらけの部屋が出来るのよ」
「アニキは物を大事に取っておくタイプなんですよ」
 首をぐるんと捻り、実が信じがたいものを見るような表情で真衣を見る。
「そういう問題じゃないわよ! 全部保存してたってこんな量になるわけないじゃない!」
「いや、ほらその……アニキはゲーム好きなんで」
「わっ、すごい! 全然ホコリが積もってないや」
 一台一台きちんと掃除され、汚れ一つ付いていないゲーム機を夕兎が間近で見つめている。これだけの量がありながら、ソフトの並べ方やケーブル類の丸め方など、細かなところまでこだわって整理されていることに実は気づいた。
「飲み物持ってきたんでよかったらどうぞー」
 ペットボトルと人数分のコップを載せたお盆を持って宏平が姿を現した。実の様子をちらりとうかがってから真衣が口を開く。
「アニキ。こっちの部屋を使うってことは、もしかして」
「ゲーム音楽部の人たちが来るって聞いたから、ゲームでもてなすのが妥当かと思って。せっかくみんな集まったんだから一緒に遊ぼうよ」
「ああ、やっぱりそういうことね……えーっと」
 破裂寸前の風船を見るような目つきで真衣がこちらを向いた。頼むから爆発してくれるなと懇願する心の声が聞こえてくる。
 その気持ちを理解しつつも決して退かないのが実という人間だった。背筋をピンと張り、威嚇するような上目遣いで宏平を鋭くにらむ。
「あのですね、今日わたしたちがここに来たのはそういう理由じゃ」
「宏平さん宏平さんっ、僕、こんなにたくさんゲームがある部屋を見たの初めてです!」
 実が喋っているのに気づいていないのか、勢い良く夕兎が話の腰をへし折った。興奮しすぎて宏平しか目に入っていないのが傍目にもすぐわかる。
 溜め込んだ気合が漏れ出すように、実の口から「へぁ!?」という気の抜けた声が転げ落ちた。夕兎が小走りに宏平のもとへと駆け寄り目を輝かせる。
「今日はお話したいこといーっぱいあるんですよ! 宏平さんはどんなゲームが得意なんですか?」
「得意かー、色々あるけど……有名どころならトテリスあたりかな?」
「おっとぉ?」
 先ほどから興味なさげに視線を泳がせていた千鳥がビビッと反応した。すかさず夕兎が片膝をつき両手をババッと千鳥に向けて広げる。
「トテリスならうちの姉ちゃんの得意分野ですっ。かなり強いですよ!」
「自慢じゃないけど……プロ並みってヤツ?」
 千鳥がさらっと前髪をかき上げて渾身のドヤ顔を決め、それをもてはやすように夕兎がヒラヒラと手を振っている。千鳥のしたり顔を目にした実の眉間に、岩石のひびのごとく複雑なシワがもりもりと浮き上がった。
 どうしてこの二人は初対面の相手の前で平気で茶番をやらかすのか。すみませんお兄さん、うちの部員はこんなおバカでごめんなさい、そう頭の中で謝り倒す実の思考から本来の目的が急速に押し出されていく。
 姉弟コンビのやり取りに特に驚くでも引くでもなく、宏平が静かな自信に満ちた目で千鳥の挑発に応じた。
「なるほど。じゃ、俺と千鳥さんとでトテリス対戦と行きましょうか」
「望むとこだぜ!」
 テレビで見た中国拳法の構えでも真似ているのか、千鳥がなんだかよくわからないポーズを決めて宏平を威嚇している。姉と宏平の両方を応援するように夕兎が両手を掲げてパチペチと手を鳴らしていた。
 宏平が真衣の方へと目を向け、ゲーム機の詰まったラックを指差す。
「それじゃ、真衣たち3人でなにかゲームやったら? 適当にそのへんの使っていいよ」
「え……ああ、うん。そうだね」
 真衣が横目に実の顔色を盗み見る。困惑がうっすらと透けて見える笑みを実が口元に浮かべた。
「あの、わたしは……ゲームはあんまり……」
 脳裏に嫌な記憶が蘇る。生まれて初めて触ったゲームでさんざん失敗して恥をかき、その上夕兎の大事なゲーム機を壊して泣かせてしまったトラウマが、今も実の心臓の端っこに引っかかったままなのだ。
 どう説明すべきか迷って言葉に詰まっている実の代わりに、真衣がフォローを始めた。
「実先輩はあんまりゲームしないんだよ。こないだ夕兎に勧められてちょっとドクタームリオやったくらいで」
 真衣の言葉を耳に入れつつ、宏平が実の顔に浮かんだ複雑な表情を見ている。右手で眼鏡のつるを掴んでズレを直し、少し考え込んだ後、おもむろに口を開いた。
「なるほど。実さん、ゲームの操作方法は覚えてます?」
「へ? ええ、まあ」
「それじゃ今日、もう一回ドクタームリオやってみませんか? 最初は上手く遊べなかったかもしれないですけど、時間を空けてもう一回プレイすると案外すんなり出来るもんですよ」
「あー……そういうもの、ですかね」
 自信なさげに実が首をかしげる。正直もうゲームはやりたくなかったのだが、自分だけ何もせず他のメンバーを眺めているというのも妙な話だ。とりあえず場の雰囲気に合わせて適当にやっておくか、そう思いつつ周囲に気づかれないぐらい小さなため息をついた。
 宏平が急に千鳥に話を振った。
「千鳥さん、ドクタームリオやったことあります?」
「んぉ? いや、トテリス以外ゲームやったことないよん」
「ないよん、じゃないわよまったく。敬語使いなさい敬語」
 苛立つ実をものともせずに、千鳥がビッと親指を立てて自分の顔を指し、素早く切り返す。
「アタシが敬語使ってるとキャラがおかしくなるだろ? 実が急におしとやかになったら気持ち悪がられるのと同じようなもんさ」
「言ってくれるじゃないのこの……あんたのその意味不明なキャラ作り前からイライラしてたのよねぇ」
 こめかみをひくつかせ、引きつった不気味な笑顔を実が浮かべた。これはまずい空気だと察したのか、わざと会話を中断させるように夕兎が身を乗り出す。
「それで宏平さん、ドクムリがどうかしたんですか?」
「うん。千鳥さんと実さんとで対戦してみたら面白いんじゃないかなって」
 石を投げ込まれて波紋を生じた水面のごとく、実の顔に闘争心のかけらが不意に浮かび上がった。
 昨日の勝利の味が記憶の底から鮮明に蘇ってくる。競争が生み出す興奮と、限界まで喰らいついた先に掴む逆転の喜びを反芻する。
 しかし、自分にとってゲームとは異次元の産物なのだ。目の前の画面に映る物体を1つ動かすことさえままならない、まるで利き手を封じられた状態で箸を使えと言われているようなもどかしさ。一人でもまともにゲームをこなせていないのに勝負などできるはずがない、そう訴える理性と戦いを求める本能がぶつかり合い、実の気持ちがゆらゆらとふらつく。
 その迷いを見透かしたように宏平が手早く説明を加えた。
「今から1時間くらい実さんにはドクタームリオの練習をしてもらいましょう。それである程度遊べる状態になるはずです。で、千鳥さんはドクタームリオの練習はあえて一切なしで、そのまま勝負に臨んでください。トテリスは得意だそうですから落ちものパズルの操作感覚には慣れてるでしょう、それでだいたい対等に戦えるんじゃないですかね」
 宏平の言葉に揺り動かされるように、実の心が「逃げ」から「攻め」へと傾いていく。例え自分の苦手な分野であっても、千鳥を打ち倒すためとなれば気合の入り方が違うのだ。
 実の決意が固まるより先に、千鳥が宏平の提案に迷わず乗っかった。
「ちょーどいいじゃん。昨日1勝1敗で中途半端になった試合の続きってことで」
 挑発的な目つきで千鳥が実の瞳を真っ向から見据える。内に抑え込まれていた実の苛烈な気性があぶり出され、その顔つきがみるみる変わっていく。
 今日ここにやってきた理由など、すっかり意中から消え去っていた。

 誰にも気づかれないようこっそりと、真衣は安堵の吐息を漏らした。
 夕兎と千鳥が茶番をやってくれたおかげで命拾いした。あれで実が平静を失っていなかったらいつ兄と衝突していたかわかったものではない。
 千鳥と対戦するという提案に実が上手く食いついてくれたのも幸運だった。こうして見てみると、実も案外周囲の状況に流されやすいタイプなのかもしれないと真衣は思う。
 宏平と千鳥がDSを2台使ってトテリスを、実がヴィーとテレビ1台を使ってドクタームリオを遊んでいる。そして真衣と夕兎は、ラックから引っ張り出した64をもう一台のテレビに繋ぎ、昨日のごたごたで遊べなかったスマブロを改めてプレイしていた。
 座布団にちょこんと正座している夕兎が幸せそうに頬を緩める。
「はぁ……やっぱり64は癒されるよねぇ。スティックの感触が懐かしい」
「今のコントローラとだいぶ違うよね。あとこのグリップ感が個人的に好き」
 画面をじっとにらみつつ真衣がスティックを小刻みに弾く。あぐらをかき猫背で座っているその姿は、行儀の悪い小学生くらいの男の子を髣髴とさせる。兄によく注意されるので多少意識はしているのだが、何かに熱中するとどんどん姿勢が悪くなるのが自分の性分なのだ。
 ぴんと背筋の伸びた夕兎の姿を横目に見つつボタンを叩く。
「結構上手いね、夕兎」
「えー、さっきから明らかに真衣が連勝してるじゃない」
 少し不満を見せるように夕兎が首をかしげた。勝率はおよそ3対7で真衣の方が優勢だ。フィールドを駆け回るようにして距離を取りながら応戦する夕兎のペカチュウを、真衣のケービィが最小限の動きでじりじりと追い詰めていく。
「いや、逃げながら戦うの上手いなって。でんこうせっかでかく乱する戦い方面白いね」
「でしょー、これで相手のペースを崩して……あー!」
 でんこうせっかで高速に飛び回るペカチュウを、ケービィの空中蹴りがピンポイントで射抜いた。相手の動きを完全に先読みした一発だ。ダメージの蓄積したペカチュウの体が勢い良く画面外へと弾き出される。
「あんまりそれに頼ってると動きが見えてきちゃうよ」
「うー……なんか真衣って勝負慣れしてるよね。だんだん勝てなくなってきちゃった」
「アニキに鍛えられてるからかなあ。後でアニキと戦ってみる? 私よりもっと強いよ」
「あ、やりたいやりたい! 姉ちゃんたちの対戦が終わった後で、ってあれ?」
 宏平たちの方に目をやった夕兎が不思議そうな表情を見せた。つられて真衣も視線を向ける。
 珍しく千鳥の口元から笑みが消えていた。
「早さではっ……早さでは負けてないのにっ!」
「千鳥さんミスがちょっと多いんですよ」
 宏平と千鳥それぞれの手元からマシンガンのようにボタンを連打する音が響いてくる。どちらも相当な手練のようだが、追い詰められた千鳥の顔には余裕がない。対照的に宏平は穏やかな笑みを崩さなかった。
 勝負が決まり、二人の手が止まる。うなだれている千鳥の雰囲気からするとどうやら宏平が連勝しているようだ。
 千鳥が両手を床について頭を深々と下げた。
「あの高速プレイで、しかも対戦相手の様子を観察する余裕があるとは……参りました」
「これはどうも」
 DSをぱたんと閉じ、宏平が軽い会釈を返す。道場破りが勝負に負けてそのまま弟子入りするかのような、不可思議な師弟関係が醸成されているようだ。相変わらずこの千鳥という先輩の人物像が良くわからない真衣だったが、その良くわからないものを泰然と受け入れる兄もやはり変わり者だなと思うのだった。
 夕兎が両の拳を握り締めて歓喜の声を上げた。
「すごいです宏平さんっ、姉ちゃんに勝った人初めて見ました!」
「ありがとう。夕兎君のお姉さんも相当な腕前だね。全力出さないと勝てない相手は久々だったよ」
「光栄でっス!」
 奇妙なイントネーションで千鳥が一礼した。相変わらずキャラ作りが激しいのでどこまで本気なのか謎だったが、宏平の実力に対して敬意を持っているのは嘘ではないようだ。
 宏平がおもむろに腰を上げた。
「そういえば、飲み物だけじゃなくてお菓子もあった方が良かったかな。今持ってくるんでちょっと皆さん待っててください」
「師匠、アタシも手伝いまっス!」
「いえいえ、軽く用意するだけなんで一人で十分ですよ。お客さんに手伝わせるわけにはいかないですしね」
「恐縮どぇっス!」
 王を出迎える家来のごとく身を屈め、千鳥が部屋から出て行く宏平を見送る。ドアが閉まるのと同時、先ほどから千鳥に背を向けて黙々とドクムリの練習をしていた実が、しびれを切らしたように振り向いた。
「あんたねぇ、せめて初対面の人相手にはもうちょっと普通にしてられないわけ?」
「お前が敬語使えって言ったんじゃん」
「それのどこが敬語なのよ! ほんっと意味わかんないわ!」
 頭からぶすんぶすんと湯気を噴き出しながら実が憤っている。しかし真面目に説教しても無駄だと知っているからか、一発鼻を鳴らすとすぐにテレビに向き直ってゲームを再開した。
 さりげなく真衣が実のプレイを観察する。この間の慌てっぷりが嘘のように力量が上がっているのがわかる。動作にぎこちなさが残っているしカプセルの積み上げも遅いが、時間をかければ簡単なステージはクリアできるようになってきていた。
 せっかくみんなで集まって遊んでいるのに、わざわざ実を一人にさせた兄の考えに最初は疑問を持っていた真衣だったが、今ならその意図が理解できる。一人でやっているからこそ、失敗を人に見られて恥ずかしい思いをする心配がないのだ。先日夕兎や千鳥に翻弄されながらプレイしていた時とは明らかに違い、実がしっかりとゲームに集中しているのがわかる。
 真衣の思考に割り込むように夕兎が話しかけてきた。
「ねね、真衣のお兄さんってほんっとにすごいんだね。早くスマブロ対戦してみたいな」
「アニキはどのゲームもかなりやり込むからね。パズルとかアクション、格ゲーとか……あとシューティングも」
「ほうほう、自慢のおニーチャンってわけですなぁ」
 急にいつもの調子に戻った千鳥が、真衣を見つめてニヤリと口元をゆがめた。キツネのように目を細めたその顔にいたずらの気配が滲む。
「はい? いや、別に」
「さっきからおニーチャンの自慢話が絶えないよねぇー」
「……いや、そんな」
 千鳥に触発されるように、夕兎の顔にも小悪魔めいた笑みがこぼれた。
「そういえば部室で真衣と話してるとさ、何かとお兄さんの話が出てくるよね」
「え」
 真衣が頭の中で必死に反論を探している。その思考に止めを刺すように、夕兎が可愛らしい笑顔を見せた。
「真衣はお兄さんがダイスキなんだねぇ」
 急所を突かれて呼吸が止まったかのごとく、真衣が固まった。しばらくの沈黙の後、みるみる頬が赤く染まり、せわしなく千鳥と夕兎に交互に視線を向け始める。
「だっ、いやだから、ただゲームが上手いって話をしただけでしょ!? 別に深い意味ないですから!」
「あらま、仲のいい兄妹だこと」
 ゲームに集中していたはずの実がいつの間にかこちらをしげしげと見ていた。友達に好きな女の子の名前をバラされて、顔を真っ赤にして怒っている息子の姿を眺めている母親のような、何とも生ぬるい視線だった。
 真衣の顔が耳まで真っ赤になった。思わず立ち上がって叫ぶ。
「違いますってば!!」
「何が?」
 いつの間にか部屋に戻ってきていた宏平が、拳を握り締めて一人突っ立っている真衣を怪訝そうな表情で見ていた。紅潮した顔を隠すように、慌てて真衣が背を向けて座り込む。部員たちが密かに笑っている気配がうっすらと伝わってきた。
 真衣の後姿を不思議そうに一瞥した後、菓子を載せたお盆を床に置いて宏平が静かに口を開く。
「どうです実さん、だいぶ遊べるようになってきたでしょう」
「あ、はい。そうですね」
 宏平の言葉に引かれるように、夕兎が実の方へと近づいて画面を見つめる。
「ほんとだ、前よりずっと上手くなってますねっ。だいぶ消せるようになってきてるじゃないですか」
「そ、そうかな? はは」
 夕兎に褒められるのがまんざらでもないのか、実の口の端に少々だらしない笑みが現れる。顔の赤みがようやく引いてきた真衣が、その口元を盗み見て思わず苦笑した。
 千鳥がすかさず実と夕兎の間に割って入り、偉そうにあごに手を当ててもう片方の手で画面を指差す。
「ほっほー、この早さじゃアタシにゃ追いつけないねえ」
「早さで勝負が決まると思ったら大間違いだわよ」
 再び両者の視線がぶつかり合い、見えない火花を散らし始めた。喧嘩しているようにも見えるが、同時に勝負への高揚感が二人の顔に滲み出ていることに真衣は感づく。
 子の成長を見守る親のように、宏平が実たちの様子を後ろから黙って確認していた。兄が二人に対戦するよう提案したのも、実の士気を高めて、ゲームの面白みを深く知ってもらうための試みだったのだろう。事が想定通りに進んでいることへの自信がその横顔に見て取れた。
 実のプレイを見ながら、夕兎と千鳥があれこれと応援やら野次やらを投げかけている。真衣の視線に気づき、宏平が小さな声で話しかけてきた。
「練習は一人でやった方が集中しやすいと思うんだけど、ずっと放置されてるのも寂しいからね。時々話しかけてもらった方がいいと思って」
「あー、確かにね」
 うっすらとではあるが、実の表情に嬉しそうな色合いが感じられる。やはりある程度上手くなったら、ひとりで遊ぶより誰かに見てもらった方がゲームは楽しいのだ。宏平がそこまで見抜いた上で、実に注目が集まるようさりげなく誘導していたことに思い至り、真衣の目が感嘆を示すように丸くなった。
 宏平が棚の上の時計を見やる。さして大きくはない、けれどしっかり通る声で、部屋にいる全員に聴こえるよう宣言した。
「さてと。そろそろ本番と行きましょうか。実さん、千鳥さん」
 呼ばれた二人が揃って宏平の方に目を向ける。
 待ってましたとでも言いたげに、攻撃的な笑みが二つの顔を同時に歪めた。

 ギャラリーに囲まれながら千鳥と対戦を始めてから数試合。ついさっき、自信満々の笑顔を見せてしまったことを実は後悔していた。「だいたい対等に戦えるはず」という宏平の言葉が、思ったほどアテにはならないことをすぐ悟ってしまったのだ。
 初めこそドクタームリオのシステムに混乱していた千鳥だったが、持ち前の感性を生かして適応するのにそう時間はかからなかった。現在の戦績だけ見ればこちらが連勝しているものの、明らかに千鳥の腕前はすでに自分と拮抗しつつあった。このままのスピードで千鳥が成長し続けるとすれば、追い抜かれるのは時間の問題だ。
「なるほどなるほど。だんだんわかってきたわコレ」
「姉ちゃん頑張って! 実先輩もファイトですっ」
 夕兎の声援を耳に入れつつ、後ろで様子を見ている宏平の姿をちらりとうかがう。やはり千鳥の適応力の高さに驚いているようで、予想外の展開に戸惑っている様子がかすかに伝わってくる。その横に座っている真衣も心配そうな表情を見せていた。
 初めてゲームをやったときの惨状を思い出す。夕兎の前で失敗を繰り返して恥をかいたあのときと似ている。これから何度も敗北するところを人に見られなければいけないかもしれない、その悪寒に冷や汗が滲んだ。
「あ、やばっ」
 焦りが実の手元を狂わせる。逆向きに置いてしまったカプセルが足かせとなり余計なブロックが増えていく。
 見かねた真衣が前のめりになり、慌てて口を挟んだ。
「実先輩、先に左上のとこ消した方が」
「わかってるんだけど手が回んない、あっ」
 左側に注目し過ぎたあまり、今度は右側に落としたカプセルの位置がずれてしまった。みるみるフィールドが埋まり逃げ場が無くなっていく。
「おっとぉ、これは勝っちゃったんじゃないの?」
 千鳥が得意げに余裕の声を上げた。実の状況と反比例するように千鳥のフィールドが片付いていく。それを視界の端に捉えた実の焦燥感が増幅し、ますますミスの連鎖に飲み込まれていく。
 これはもうだめだ。そういう直感が働き、実の手が一瞬止まった。同じことを周囲で見ている皆も感じているはずだ。
 しかし動きを止めると同時に、実のもう一つの直感が脳を貫いた。
 ここで諦めたら絶対に巻き返せなくなる、と。
 勝負とはそういうものなのだ。今回はもういい、次に頑張ればいい、そう考え始めた瞬間全てが中途半端になっていく。そのままずるずると連敗の穴に落ちていく自分の姿を、実の本能は鮮明に記憶していた。
 指が勝手に動き出す。先ほどの練習で叩き込んだ動きを地道に繰り返す。頭のどこかで理性が「もう無理だ」とぶつぶつ呟いているが、そんなことは知ったことではないのだ。
 負けて、たまるか。
「おぉ……すごいな」
 宏平の口から驚きの声が漏れた。ゲームオーバー寸前のところで持ち直し、息を吹き返した実への賞賛だった。
 上限ギリギリのラインでブロックを削り、実がフィールド中央に少しずつ穴を開け始める。
「ぅげ」
 実の攻勢に飲み込まれるかのように千鳥がミスを犯した。相手がすでに自滅の一歩手前にいたことへの油断があったのだろう、ミスがミスを呼ぶような形で急に千鳥のフィールドがごちゃごちゃになっていく。
「姉ちゃん落ち着いて、まだ大丈夫だよ」
「わかってるって。こんなもんすぐ……あれ? んん?」
 試合が長引いて初めて、実は自分の底力が千鳥に勝っていることを実感した。
 千鳥は調子のいいときこそ早くブロックを消していけるが、一度ペースが乱れるとなかなか元の勢いを取り返せない。対してこちらは練習中にさんざん失敗しているので、荒れたフィールドを地道にならしていく術を指が知っているのだ。
 着実に歩を進めていた実が千鳥を抜き返す。それを悟った千鳥がようやく立て直し、ぎりぎりの所で喰らい付いていく。
 場の緊迫感に引っ張られるように、いつもより大きな声を夕兎が上げた。
「二人ともっ、あとちょっとですよ!」
 実が最後のカプセルを落とし込み、すかさず勝利を示す文字が画面に躍り出る。勝負が決まる直前、二人の間にあった差はせいぜい1、2手ぶんのわずかなものでしかなかった。
 真横で千鳥が天井を仰いでいるのが見える。思わず実が力強く拳を握り締めた。
「っしゃ! ……ぁ」
 はっと我に返り、実が手に込めていた力を緩めた。ゲームで勝ったぐらいで何を喜んでいるんだという恥ずかしさがわき上がり、慌てて隠そうと手を引っ込める。
 まるでそのタイミングを見計らったかのように、実の手のひらを夕兎が掴んだ。幸せそうな笑顔を実の傍へと近づける。
「すごかったですよ先輩、大逆転じゃないですか!」
「そ、そうかな」
 夕兎が心底喜んでいることに気づき、思わず実の頬が緩む。夕兎に続くようにして宏平が感嘆の表情を見せた。
「あそこから取り返せるのは大したもんですよ。何より諦めなかったのがすごいですね」
「はは。いや、そんな大したことは」
 鼻の頭をぽりぽりとかき、落ち着きのない調子で周りを見渡す。無我夢中で戦っていたので気づかなかったが、先ほどの自分の粘りが他の人には高く評価されていたようだ。
 実の方に手を突き出し、千鳥がぴんと指を立てる。
「もっかい」
 千鳥の横顔を見る。実の視線にぶつけるように、千鳥が目をこちらに向けた。
「もっかいやろうぜ」
 昨日の卓球の試合を思い出す。闘志に満ちた千鳥の瞳にかき立てられ、実の口元に張り裂けるような笑みが浮かんだ。
「当然よ。まだこれからに決まってるじゃない」
 二人同時に白い歯を見せると、すぐさま次の勝負をスタートさせる。観客の存在など忘れてどちらも深く集中していく。
 実たちの試合にだいたい区切りが付いたのを見るや、先ほど真衣たちが使っていた64を指差して宏平が言った。
「さて、今度は3人でスマブロやろっか」
「あっ、やりたいです。宏平さん強いんですよね」
「じゃあさ、私と夕兎でチーム組んでアニキと戦うのはどう? そのぐらいじゃないとバランス取れないし」
「それいーなー。真衣と組むの楽しそう」
 背後で3人が盛り上がっているのをどこか遠くの出来事のように感じつつ、実は目の前のカプセルをさばくことに全ての意識を注いでいた。
 ほんの数十分前までぎこちなかった指の動きがどんどん速くなっていく。コントローラを握っていることすら忘れるくらいに、ボタン操作が手に馴染んでいることに実は気づいた。

「さてと、そろそろお暇しないとね」
 窓の外には夕暮れ時が訪れていた。実の言葉をきっかけに、置時計や腕時計で各々が現在時刻を確認し始める。
 不満げに千鳥が指を立てた。
「もーいっかい! 最後にアタシが勝って終わらないと気が済まん」
「そんなこと言い出したらキリないでしょうが。いいじゃない、だいたい勝率は五分五分なんだから」
「自分が最後に勝ったからって余裕こきやがってからに」
 文句を言う千鳥を無視して立ち上がる。追って夕兎と宏平、真衣が立ち上がり、少し遅れてようやく千鳥が腰を上げた。
 バッグを肩にかけて帰宅の準備をしていると、宏平がこちらに一歩近づき穏やかな笑みを見せた。
「どうです実さん。ドクタームリオ、なかなか面白かったでしょう」
「あはは、そうですねぇ。結構熱中しちゃったかもしれません」
 初めてゲームをプレイしたときのことを思い出す。あのときはただ苦痛と混乱しか感じなかったものが、今では確かに「楽しい」と言えるものへと変貌していた。
 そんな実の心の変化を読み取ったかのように、宏平がおもむろに語り始めた。
「ゲームって、初めて遊ぶ人にはいまいち理解してもらえないことも多いんですよ。よく知り合いにゲームを勧めるんですけど、なかなか馴染んでもらえないんです」
 真衣が苦笑いを見せる。
「そういや、アニキってお客が来るとよくゲームやらせようとするよね」
「そりゃそうさ。ゲーム好きだからな」
 そう口にした宏平の顔にほんの一瞬だけ、子供っぽい笑顔が浮かんだ。本当にこの人は心底ゲームが好きなのだと、今までの落ち着いた雰囲気とは違うその表情を見て実は思う。
「やり込めばやり込むほど上達するのが楽しいですし、友達と腕前を競うのも楽しいもんです。でも何よりすごいのはね、ゲームっていうものには、人の輪を作り出す力があるってことなんですよ」
 先ほどの光景を実は回想していた。ゲームを遊んでいる自分たちと、それを応援したり観戦したりする人たちが一緒になって時間を過ごす。そういう人と人が繋がる空間を、確かにゲーム機が生み出していたのだ。
 夕兎が好奇心に満ちた目で実を見つめる。
「今度僕とも対戦しましょうよ先輩。きっと楽しいですよ」
「うん……そうだね」
 実の心の中からトラウマが消えていく。思い出したように、宏平が言葉を付け加えた。
「それに、ゲームは音楽も粒揃いですしね。ドクムリのBGMはなかなか独特で面白いでしょう?」
「あー、耳に残りますよね。私も学祭のライブに向けて、もうちょっとゲーム音楽を聴いておかないと……ん?」
 そう、学園祭のライブでゲーム音楽を演奏する予定なのだ。当然ライブに向けて楽器の練習をしなければいけない訳で、
「あーっ! そうだ、思い出した!」
 突然実が叫ぶ。きょとんとしている宏平の後ろで、真衣の顔面から急速に血の気が引いていった。
「肝心なこと忘れてた! お兄さん、今日は真衣ちゃんのことでお話しに来たんですよ! 毎日1時間もゲームしなきゃいけないって本当なんですか?」
「ええ、うちではそうなってますけど」
 あっさり肯定され、思わず実の頭に血が上りかける。
「楽器の練習時間が取りにくくなるって真衣ちゃんが言ってるんですよ! なんでゲームなん……」
 なんでゲームなんかやらせているのか。そう言おうとした実の口が途中で止まる。
 ここにやって来る前まで、自分の中には「ゲームなんて」という意識が確かにあった。そのイメージが偏見だったということに気づき、実の頭が徐々に冷静さを取り戻していく。
 宏平が真衣の方を振り向いて表情をうかがう。
「でも真衣、最近は一日5,6時間はゲームやってるよな?」
「へっ?」
 真衣の目がまん丸に開く。
「真衣の部屋の前を通ると、よくマウスの音がカチカチ聴こえてくるんだよ。あれ多分FPSやってるときの音だよな」
「……い、いやいや、ネットで調べものをしてるだけなんだけど」
 真衣がふいと目を逸らした。不審者の様子を観察するかのごとく、実の目が細く鋭くなっていく。
「ネットサーフィンであんなマウス連打しないだろ。昨日も深夜までカチカチカチカチやってたよな、確か」
 実から隠すように顔を背けて真衣が冷や汗を垂らしている。両手を腰にがっつりと当てると、実が鋭利な上目遣いで真衣をにらんだ。
「真衣ちゃーん? 1時間ルールのせいで練習できないとか何とか言ってたけど、あれ全部言い訳だったのね?」
「えーと……あのー」
 青ざめた顔であちこちに視線をさまよわせた後、ぽつりと真衣がつぶやく。
「……トイレ行って来まーす」
「あ、コラ待ちなさい!」
 一目散に逃げていく真衣を追いかけようと、実が足を浮かせる。それを宏平が手のひらを見せて制止した。
「なるほど、あいつ練習サボってるんですね。任せといてください、それはこっちの方で厳しく言っておきますから」
 何か悪だくみでも思いついたのか、宏平がニッと微笑む。まあそれならいいかと、一応の納得を見せて実が小さくうなずいた。
 真衣が出て行ったドアを見ながら、理解できないという顔で実が首をかしげる。
「それにしても5,6時間って……いくらなんでもやりすぎなんじゃないですか」
「あいつは放っておくと平気で10時間くらいぶっ続けでゲームしちゃうタイプなもんで」
「じゅ……なんですって?」
 呆れているような驚いているような、何とも言えない面持ちで実が宏平の顔を見つめる。薬指で眼鏡の位置を調整しつつ、宏平が困ったようにこめかみのあたりをかいた。
「子供の頃から集中力だけはすごいんですよ。一度熱中し出すと、周りが何言っても聴こえなくなるみたいで」
「その集中を練習に向けてくれればいいのに、もう」
 腑に落ちないという様子で実が眉間にしわを寄せる。部屋の入り口の傍で待っていた千鳥が会話に割り込むように声を上げた。
「おーい、そろそろお暇するんじゃなかったのかー。外暗くなってきたぞ」
「っと、そうだった。それじゃお兄さん、今日はどうもありがとうございました」
「こちらこそ。あ、そうだ」
 千鳥、夕兎、そして実の方へ順番に目を向けてから、宏平が深く頭を下げた。
「真衣のこと、よろしくお願いします。あいつほっとくとダラダラしちゃうとこがあるんで、とことん厳しく接してあげて下さいね」
 にこやかでありながら、どこか般若を思わせるような笑みを見せ、実がしっかりとうなずく。
「わかりました。責任持って面倒見させてもらいますよ、徹底的にね」
 1階のトイレから、使ってもいないのに水を流す音がかすかに聞こえてくる。悪寒に苛まれたかのごとく、くしゃみの音が数回廊下に響いていた。

 あれから数日後。放課後の部室で一人、隅に置かれた私物のキーボードを実が弾いていた。
 ドアのノブを捻る音が聴こえ、無意識にそちらに目をやる。
「あ、実せんぱーい。ただいまです」
「はいおかえり」
 夕兎がドアを閉めると同時に実が演奏を再開した。目を大きく見開き、夕兎が驚きの表情を見せる。
「それ、ドクムリのBGMですよね! 先輩がゲーム音楽弾いてるの初めて見ました」
「そういえばまだ弾いてなかったわねぇ。ゲーム音楽部なのに」
 苦笑い気味に肩を揺らす。実の指が鍵盤の上を跳ね、ドクタームリオの軽快でクセのあるメロディーが部室に響いた。
 背負っていたベース入りのケースを卓球台の上に置くと、夕兎が音に合わせて首と足でリズムを取り始める。
「あは、やっぱりいい音だー」
「ここ数日ちょっと練習してみたの。あそうだ、夕兎君このベースライン弾いてみない? 合わせて演奏してみましょうよ」
「いいですね、やってみたいです!」
 メロディーを鼻歌で歌いながら夕兎がギターケースのファスナーを開く。この調子でどんどん部員たちの練習量を増やしていかねば、そう心の中で鼻息を荒くする実だった。
 ふとあることを思い出し、実が不思議そうに片眉を持ち上げる。
「そういえば真衣ちゃんどうしたのかしら。ここ数日見てないような」
「僕も会ってないですねー。って……あれ?」
 夕兎がドアの方に視線を向け、つられて実もそちらを見た。
 部員に気づかれないくらい静かに真衣がドアを開き、顔の半分だけを出して中の様子を確認している。
「今卓球やってないですよね……大丈夫かな?」
「大丈夫大丈夫。顔面に球ぶつけたりしないから」
 実が半笑いを浮かべ真衣を手招いた。ようやく真衣が部室へと足を踏み入れる。
 真衣が背負っているギターケースを見て、夕兎が驚いた顔で口を開いた。
「あれっ、そのケースいつも使ってるギターのじゃないよね? 新しく買ったの?」
「うん、買ったというか、買ってもらったというか」
 夕兎が持っている柔らかいケースとは違う、頑丈そうな素材の角ばったケースだった。どこにもぶつけたくないらしく、しきりに真衣が周囲を警戒している。
 ケースを台の上に静かに載せると、ようやく緊張から開放されたという様子で真衣が深く息を吐き出した。
「アニキが急にこのギター買ってきてさ、『頑張って練習しろよ』って」
「プレゼントなんだ。へえ、いくらぐらいのものなのコレ」
「……40万だって」
 夕兎の表情が一瞬固まる。ギターケースに触ろうとしていた手を慌てて引っ込め、驚愕の目で真衣を見た。
「40万!? 4万じゃなくて!?」
「あら、なかなかいいの買ってもらったじゃない」
 楽器の相場が比較的高いことを知っている実は特に驚くでも動揺するでもなく、満足げに目を細めた。
 慣れない手つきで真衣がケースを開け、光沢のあるギターの黒いボディに恐る恐る手を置く。
「バイトで溜めた金はたいて買ったんだから絶っ対に無駄にするなよ、って念を押されまして……いきなりこんなもの渡されても、どうすりゃいいんですかっ」
「今は高いと思えても、一生モノとしてしっかり使い続ければ妥当な値段になるのよ。楽器ってそういうものなんだから」
 実が真衣の傍へと歩み寄る。不敵な笑みを見せ、人差し指を真っ直ぐに伸ばして真衣の額に向けた。
「真衣ちゃんはいいお兄さんに恵まれたのねぇ。そういう厚意をないがしろにしちゃダメよ」
「うぅ……はい」
 実の指が真衣のおでこに突き刺さり、押されるようにして真衣が一歩引く。
「今後は何があっても、練習サボらないようにねーぇ」
「はいぃ……」
「ねえ真衣、カチカチって音がしないマウスもあるらしいよ? 今度一緒に買いに行こっか」
「……はは、そりゃいいや」
 真衣の乾いた笑いが部室に響く。その瞳に「GAME OVER」の8文字が浮かんでいる。

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